読書好きの森。

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【まんがでわかるヒトは「いじめ」をやめられない/中野信子】

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「いじめをなくそう!」「いじめはいけない!」

 

と聞き続けて、何十年。

 

いつまで経ってもなくならない。

 

むしろ、

 

インターネットやSNSの爆発的な広がりにより、

いじめの形態は複雑に、そして、陰湿になってきている。

 

私の友人の中学校教員も、今年度受け持ったクラスでSNSトラブルがあり、

 

聞き取りや話し合いに相当苦労したと言っていた。

 

そもそも授業時間外に起こったトラブルであっても、

「いじめ」につながる可能性があるならば、学校として対応している。

 

ということみたいだ。

 

いじめを受けるほうも、それに対応するほうも、そして、いじめの加害者も、

たくさんの人がダメージを受ける「いじめ」。

 

広くいじめの危険性が広がっているにも関わらず、

なぜなくならないのだろうか。

 

それは、

 

いじめには「機能」があるからなのでは?

 

と述べている。

 

ムラが出来だし、集団として生活はじめた時代。

周りの人々と協力し、行動していくことが重要視された。

そして、

集団で創った食べ物を均等に分配するなど、「ルール」が必要になった。

種を残すために「ルール」を守ることが大切であった。

 

そこで、一番脅威になる存在は誰か。

「敵」ではない。

 

集団を内部から壊そうとするフリーライダーという存在である。

 

直訳すると、「ただ乗りする人」

 

簡単に言うと、

協力しない人・ずるをする人のこと。

 

フリーライダー」に自由にされたら、

集団を壊されてしまう。

集団を壊されないように、

フリーライダー」を制裁する必要がある。

こうして、人を制裁することが起こってきた。

 

社会性の維持のために、「いじめ」が機能を持っている。

 

しかし、

社会性が高まりすぎることが問題なのである。

 

「みんな同じに!」を大切にしすぎると、

 

少しの違いでも制裁をしたり、

ルールを知らないだけの人にも制裁をしたり、

過剰な制裁を下すようになる。

 

これが、現在の「いじめ」の根幹である。

 

厄介なのは、

過剰な制裁時には、

快楽ホルモンのドーパミンが脳内に分泌されているのだ。

特に、子どもの時期は、攻撃性が高まるが、攻撃性を押さえる情動の「ブレーキ」がまだ育っていない。

 

だから、やめられない。

 

「いじめはいけません!」と言って、かんたんに防げるものではないのだ。

 

 

学校は、「同じ・平等」を求めがちである。

もしかすると、

学校の存在自体が、いじめにアクセルをかけているのかもしれない。

 

そもそも、

 

「全員違う人であることがあたりまえの社会」

 

であれば、いじめは起こらないのかもしれない。

 

 

 

…でも、違いだけでいいのか?

 

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